第25回記録

『王子から石神井川に沿って板橋へ』
石神井川に沿った近代化歴史遺産


    江戸幕府の命で石神井川の水力を利用した火薬製造設備を導入すべくヨーロッパへ派遣された使節が帰国したら世は既に明治となっていました・・・。他にも近代化歴史遺産のおもかげをみつけることができるかも。
王子から石神井川に沿って板橋へ
ルート
王子駅→音無橋→正受院→石神井川蛇行跡(1)→紅葉寺(金剛寺)→石神井川蛇行跡(2)→四本木稲荷神社境内→寿徳寺→埼京線脇の排水口→金沢橋→野口研究所(爆薬研究所)→東板橋体育館敷地内→北園高校→新旧中仙道交差点→千川上水跡→近藤勇の墓→JR板橋駅前解散→有志は懇親会
参加者:13名 集合場所 JR王子駅北口集合 日時:5月22日(土)2時から5時頃
[懇親会]
今回は、紹興酒を楽しめる庶民的な中華料理のレストランで懇親会。5時頃から板橋中華料理「味香春」
事前レクチャ:
敗戦時まで板橋・王子・赤羽・十条一帯に広大な敷地を持つ陸軍第二造兵廠がありました。その起源は東板橋体育館敷地内に再現されている火薬製造用石臼に見ることができます。説明文によると江戸幕府の命で石神井川の水力を利用した火薬製造設備を導入すべくヨーロッパへ派遣された使節が帰国したら世は既に明治となっていた。
施設はそのまま明治政府に移管され、その後打ち続く戦争で周辺に広大な軍事施設として発展した。終戦直前の空襲ではターゲットとされ、造兵廠の周辺も被害を受けた。前に参拝した王子権現もその例で、境内の建物全てが焼失し戦後しばらくは本殿もなかった。
敗戦後、造兵廠の敷地は一時 GHQに移管され(本部ビルには星条旗が掲げてありました)、その後公園(例:城北中央公園)や運動施設(例:西ヶ丘サッカー場)、教育施設(例:帝京大学高校、家政大学、成徳短大)、病院(例:愛誠病院)、各種養護施設、自衛隊十条基地などに平和利用されている。

まち歩きスタート。
@音無橋
ここから石神井川に沿って上流に向かって歩きます。
沿道は[俳句の散歩道]と名付けられ、各所に短冊に書かれた俳句が掲示してあります。
A正受院
珍しい形の鐘楼+山門。 入り口のところに咲いている白と青紫の花が我々を迎えてくれた。 赤ちゃん供養の場所でもあるようだ。
    
B石神井川蛇行跡(1)
東京層(珍しい露頭地層)
12〜13万年前に東京都付近が海底になった頃に形成されたもの。まだ石神井川がくねくねと曲がっていた。
C紅葉寺(金剛寺)
源頼朝の布陣伝承地とも言われ、昔はこの辺から見る石神井川の流域は、両岸に岩が切り立ち松や楓があり、深山幽谷の趣を持っていたと書かれている。
滝野川七福神の碑(左端のもの)もある。七福神を全部言えますか? 解答は末尾。
D石神井川蛇行跡(2)
音無緑地(一時は沢山の鴎が乱舞していました)。この辺り(BDH)は流れが激しく水音も大きかったので滝野川の名が付いた。さらに下ると流れが急に静かになるので(@)、音無川、音無橋と命名された。
現在は都営住宅が建ち昔の面影はないが、説明の碑の図では岩屋や松橋が描かれている。江戸の人たちの水遊びで涼を取るところだった。
E四本木稲荷神社境内 火薬製造用石臼(No.1)
爆発事故により石臼は破壊されてしまったが、それを加工して被害者鎮魂のための慰霊碑とした。
昔近所に銅精錬工場があり鉱滓利用のレンガを製造したが、硬すぎて割れやすく実用にはならなかった。試作品が境内の縁石に残っている。草の中のほうです。
この2件は、数年前に案内人が慰霊碑を観察していたら見知らぬ老人が話しかけてきて説明してくれた内容です。
F寿徳寺
露天大仏(谷津大観音像)が石神井川沿いにある。
本殿のそばには、アショカ王、ガンダーラ関係のものが並んでいる。4頭のライオン像とその下のハスの花と牛、馬、虎、象の飾りは、サールナート博物館に保存されているもののコピーのようだ。このライオンは、力と勇気と自信を表わしているとのこと。4頭のライオン像がインド国家の国章となっている。
近藤勇の菩提寺でもある。(NHKに便乗したらしい)
  
G埼京線脇の排水口 と H金沢橋
G埼京線脇の排水口:Mから続く千川上水排水口。江戸時代は江戸市内に(例えば六義園や小石川植物園にも)給水していた。現在は石神井川に放流している。
H金沢橋:板橋と王子を結ぶ王子新道が石神井川と交差する橋。この辺りは江戸時代には加賀藩下屋敷で、幽山渓谷の観があり地元金沢の名をつけた。加賀の名は現在も町名に残されている。
I野口研究所(爆薬研究所)
爆弾射撃ターゲット跡。コンクリート製。 (写真 左下)
造兵廠敷地内トロッコ軌道跡。 (写真 右下) 軌道幅が750mmで、電気機関車は「だるま電車」と呼ばれていた。
野口研究所は、昭和16年(1941)、旧日窒コンツェルンの創始者で日本窒素肥料株式会社社長野口遵(したがう、1873〜1944)氏が、私財2,500万円(現在の価値で約250億円)を拠出して、化学工業を調査研究するために創設した研究所を母体としています。案内人は十年程前までは野口英世を記念した細菌関係の研究所だと思い込んでいました。
http://ch08180.kitaguni.tv/e372043.html参照 。
J東板橋体育館敷地内 と K北園高校
J東板橋体育館敷地内 :火薬製造用石臼(No.2)を再現
K北園高校:御存知、当時は第4学区の高校です。懐かしく校舎に入り込み、たまたま出会った先生と昔の校庭(2段の造り)の話をする。
L新旧中仙道交差点 旧川越街道分岐点
現在分岐部は新中仙道(国道17号線)に重なり、新中仙道から分かれたその先は大山商店街となっている。さらに先は新川越街道と縺れ合うように続いています。この辺りは区役所・警察署・消防署・郵便局・税務署・文化会館・産業振興会館等が集中しています。
M千川上水跡
Gにつながる暗渠の上を歩きます。遠方まで配水できるように水位を下げない先人の努力を感じてください。
NJR板橋駅前 近藤勇の墓
  
すべての見学は終了し、懇親会会場の時間までゆっくりとする。 右は懇親会風景。味香春: 中華料理 にて。
七福神:恵比須、大黒天、弁才天、毘沙門天、布袋和尚、福禄寿、寿老人
 
 
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